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日立製作所における「研究員」について

「研究員」は係主任級 (日立では係長がないから、係のトップ) に相当する職位で、 名刺に刷れる人は大変偉い。が・・

研究所の外では(社内ですら)偉そうに見えず、押しが利かない。
銀行で融資申込書の役職欄に書いたら「研究所の人は皆研究員でしょ?」

主任研究員」 (課長級) も、世間では主任としか見ない。ブツクサ。

日立製作所における「主任技師」について

「研究員」も悲惨だが「主任技師」 (工場他の課長級の役職) も悲惨だ。

自治体などの職級は、課長―係長―主任―主任技師という系列であることが多い。 製品を売り込みに行くとき、営業は工場に戻れば雲の上のエラい課長さん (主任技師) を引っ張り出して効果を狙うことが多いが、相手が自治体などの場合、 自分のところの職級の類推からずいぶん低いランクのものが説明に来ていると思われ、 相手にされないことが良く起きる。

仕方なく、主任技師に「設計課長」の名刺を持たせる工場もあった。

日立製作所の集合教育

昭和38(1973)年に日立製作所に入社して直ぐ (集) 教育=集合教育というのが 2ヶ月あった。 後半は数十人づつ分かれて工場実習になるので、厳密な集合教育は 1ヶ月である。 大学卒が 600人弱、日立の記念館の講堂に集まって講話を聞くのだが、 なかなかの壮観である。

ある講師が講話の最初に「東大の中野君、日立製作所の売り上げは月いくらか」 と突然質問してきた。恐らく、答えに詰まることを予想してその後の話を組み立てていたのだろう。 売り上げは年 3,000億円だというのが頭の中にあったので、 12で割って「月 250億円です」と即答した。 講師は予想に反して答えが返ったので驚いたと思うが、 そこは敵もさるもので「では日にいくらになるか」と追い討ちをかけて来た。 30で割って「8億円です」と答えたら、 そこで「労働日は25日だから 10億円だ」と一本取って (?) 講話が始まった。

週刊朝日が講堂での「一同起立」や寮の光景を撮影に来た。 全員が起立している写真では、私は僅かに紙面の外にはみ出していた。

寮生活で、ある部屋の酒盛りでビール瓶が林立している写真が週刊朝日に掲載された。 ところがその瓶が「アサヒビール」だったので物議をかもした、という。 日立は日本ビールと同じ企業グループであり、日本ビールはお得意さんでもある。 苦情 (?) が来て、勤労課で調べたそうである。 日立市内の酒屋には、サッポロビール以外は置いてない筈とのことだったが、 1軒だけアサヒビールを置いてある酒屋があり、運の悪いことにそこから買ったとの話である。

日立製作所の環境保護

集合教育の中に、「折角の機会だから、会長・社長に言いたいことがあれば言いなさい」 という時間があった。普通は遠慮して意見などないものだが、いろいろ発言があった。

「会長 (当時は倉田主税氏) は九州出身なのですから、九州に工場を建てて下さい」 などという依頼や、 「家族を安心させて働くためには今の給料は安過ぎる」という過激な発言もあった。

その中で「東海道線を汽車で来たが、沿線に見える立て看板はナショナルばかりだ。 日立も負けずに立てないのか」という質問があった。 倉田会長は「立て看板は以前はあったが、私が撤去させました」と答えられて、 満場の拍手を受浴びた。もちろん、環境の美観を考えての措置だと全員が理解したからだ。

日立製作所の資源リサイクル

資源のリサイクルというほどでもないが、社内便で封筒の使いまわしをしていたのには驚いた。 驚いた、というより最初からそういうものだと頭に刷り込まれた。

外部から届く封筒を捨てずに、宛名紙という発信者と受信者を10段程度刷った用紙を貼り、 社内宛の郵便にはこの封筒を使うのである。後述する略号を使うと宛名の記入が簡単である。 節約できる金額は微々たるものであろうが、 100年近く前から資源節約の意識があったことは特筆すべきである。

信州大学に移ってからだが、単純な事務連絡の書類でさえ新品の封筒に入れて届くのには驚いた。 宛名はペン書きだから再利用はできず、全くのムダである。 しかし、世間ではそれが常識だったのだろう。 もしかすると、新品の封筒を使わないのは大変失礼だと思っていたのではないだろうか。

学内便で、宛名紙を使う試みもなくはなかったが普及しなかった。 他キャンパスは仕方がないが、学部内にはせめて宛名紙を貼った封筒を使うことも試みた。 しかし、全く意義が理解されず、宛名紙を貼った封筒だけが返送されて来たのには参った。

事業所略号と人名略号

社内便を他事業所に出すときは事業所略号を使うのが慣用である。 たとえば、小田原工場入出力機設計部の山田氏に出すときは「(小)入設(山田)」とする。 ここで、(小)は小田原工場の事業所略号で、実際にはカッコではなく○で囲む。 (山田)も実際には○で囲む。「山田様」とか「山田主任殿」などの敬称は不要である。

さらに、役職者には人名略号がある。山田氏が課長職であると、カタカナの略号が決められている。 例えば、山田氏が入出力機設計部設計課長で、略号が(ヤマ)だったとすると、 「(小)(ヤマ)」で社内便は届く。大幅な労力の節減になる。

もっとも、他事業所への社内便では略号を使わない規則になっていたらしい。 自分の事業所にも、略号(ヤマ)の課長職がいると誤配する心配があるからである。 しかし、この規則を守る社員は少なかった。

事業所略号で問題になったのは、ソフトウェア工場が設立されたときである。 慣例では工場名から一文字を取る。しかし、(ソ)だと人名略号のように取られる恐れがある。 どこかに「副島」という偉い人がいるかも知れない。 そこで事業所略号は(ソフト)になった。カタカナなので書くのも楽だろうということのようである。

人名略号:2字か3字か

人名略号が始まった頃は、日立製作所も小さく役職者も大勢はいなかったろう。 恐らく全員がカタカナ1字で済んだのではなかろうか (もちろん、同じカタカナの役職者が複数いれば片方を2字にする)。

しかし、役職者が増えてくると1字では到底足りず、事業所長クラスは1字、 部長以下は2字で表すことになったらしい。 しかし、同じ苗字の人は大勢いる。実際、私の入社時の研究室長は三浦さんだったが、 既に別の三浦さんが研究室長でおられて略号(ミウ)だった。 それで、私の研究室長は略号(ミウラ)になった (年齢は上だが電電公社から来られたので入社は遅かった)。

全く同じ苗字でなくとも、「山田」、「山本」、「山村」など、皆(ヤマ)になる。 そこで、部課長レベルでは、基本は2字だが既に人名略号が取られているときは3字、 という原則ができた。

人数の少ないうちは混乱せずに済んだが、人数が増えると大変である。 実際、私が退社する頃は課長 (主任研究員) クラス以上が200人を軽く超えていた。

上に述べた三浦さんのように、先に略号が取られていると、後から来た人は3字になる。 通常は内部昇格だから、3字の人も仕方ないと我慢する。 しかし、他事業所から部長クラスで来られた場合はそうもいかない。 私が主任研究員に昇格する少し前だが、人名略号の整理がなされ、 部長・主管研究員以上は2字、課長・主任研究員・主任技師クラスは3字、 という原則が施行された。

この整理をしたときの総務部長だが、別事業所から来られた方である。 佐藤さん (仮名) としよう。 既に佐藤主任研究員が略号(サト)を取っていたので、佐藤総務部長は(サトウ)になった。 恐らく、書類の誤配があり、総務関係だと秘密書類が錯綜したのではないだろうか。 上に書いたように、他事業所からの社内便は「(中研)佐藤総務部長」と書くべきだが、 他事業所の人は中研内の事情など知らないから「(中研)(サト)」で送って来ることも多かっただろう。

佐藤総務部長はご自分のため、というより、 その後も起こり得る誤配を防ぐためこんな原則を定めたのだろう。

人名略号が足りない

人事発表の暫く前だが、ある部長が「今度、山本○○君が昇格するが、 略号があるのだろうか」と心配していた。 山本さんなら、「ヤマ+名の1字」で良いのだが、「山田、山本」という役職者が大勢いて、 名のどの1字を取っても既存の略号と衝突する。「ヤマモ」も既にある。 結局「ヤマト」に落ち着いた。

なお、どうしても3字の略号がなく、4字になったケースがあったようである。

また、「鈴木」さんが昇格することになった。 その暫く前まで「スズキ」という主任研究員がいたが、転勤でこの略号が空いていた。 鈴木は関東では1位の苗字であり、「スズ+1字」の略号は沢山あった。 本人は「スズキ」が取れる千載一遇のチャンスと密かに期待していたが、 結局「スズ+名の1字」になってしまった。

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First Written Before 1997
Transplanted to KSU May 2, 2003
Reorganized August 12, 2006
Last Update August 12, 2006