東京大空襲
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東京大空襲
- 第二次大戦の末期、米軍は日本の戦意を挫くため、焦土作戦に出る。
特に、東京は徹底的に焼き払う作戦に出た。
- しかし、占領後に司令部や住宅として使うため、 丸ノ内や高級住宅地は爆撃しないなど、
悔しいほど良く考えられた組織的爆撃だった
3月大空襲
- 昭和20(1945)年3月10日の陸軍記念日 (実際は9日夜) を狙って、下町を爆撃
- 住んでいた早稻田は無事。
- 一面真っ赤だった夜空が記憶に残る
- このときの死者は約10万人という
5月大空襲
- 5月に、下町から山の手にかけて爆撃
- 4月に疎開した埼玉縣所澤町から、爆撃の光景(夜空)を見ていた
- 東京方面は真っ赤。焼夷弾や高射砲弾の赤い軌跡が良く見えた
- この夜、早稻田の生家は燃えた。疎開していなかったら今頃生きてはいない
このページを読んで戴いた佐野さんは、
東京大空襲を中学校1年のときに体験されたそうである。
佐野さんによれば、3月9日の後、4月13日、5月23日、5月25日と東京に空襲があった。
前の版で、私の家が燃えたのは海軍記念日の5月27日だと書いたが、違っているらしい。
爆弾は2発
週刊誌で椎名誠さんが書いておられたが、
東京大空襲で米軍が落とした爆弾は2発だったそうだ。
残りは何発か知らないが全部焼夷弾。紙と木でできた東京下町の家屋を焼くのに、
高価な爆弾は不要で焼夷弾で十分とのことだったらしい。
最初の東京爆撃と空母シャングリラ
東京が最初にアメリカ軍の空爆を受けたのは昭和17(1942)年である。
ドゥリットル中佐他の操縦する爆撃機隊が空母ホーネットから発進して東京他を爆撃した。
その一機が落とした焼夷弾が早稻田中學校庭に落ち、
生徒一人が死亡した。
ルーズベルト大統領は、爆撃機がどこから出撃したかを新聞記者に尋ねられて
「シャングリラからさ」と答えたそうだ。
シャングリラはヒルトンの小説「失はれた地平線」に出て来る架空上の国で、
チベット奥地という設定だった。
その後、本当に空母「シャングリラ」が建造されたそうだ。
60年後
平成16(2004)年3月10日に出張で東京に行き山手線で座っていたら、
隣席の乗客が「60年前はこの辺は何もありませんでした」と話しかけて来た。
そう言えば東京大空襲の次の日だと気付いた。
「兵役から帰って来たら焼け野原で驚きました」と言われたので、
「私も赤い空を見ていました」と言ったのだけれど、
まさかもう一人生き残りが隣に座っているとは思わなかったのだろう、
御自分の話だけされて次駅で降りて行った。
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First Written Before January 10, 1995
Last Updated August 8, 2006
© Yasuaki Nakano 1995-2006