20年位前までは早稲田大学からは独立していて、 早大入学に何ら特典はなかったが、早大附属だと思って入学して来た生徒も大勢いた。 名前が名前だし、創立者も早大と同じ大隈重信だから。
第二校歌出現の背景は次のようなことだろう。
早大系属 (後述) になる前は大学とは関係なかった。 どうしても早大に行きたい生徒は、高校進学の際に早大学院を受けた。 また、東大指向の生徒は当時全盛の都立高校に進んだ。 したがって、私の頃は1クラス分の生徒が減ってしまった。 それを補うため、高校で他中学出身者を受け入れていた。
高校からの入学者は「俺たちは早稲田中学附属高校さ」といって拗ねることがあった。 高校からの入学生も同じ学園なのだ、という意識を植え付ける必要もあったのだろう。 また、戦後すぐなら旧制中学=新制高校という意識もあったが、 戦後20年も経つと中学と高校は別物という考えが浸透して来た。 やはり、高校の校歌が「我が中學早稻田」では困るのだろう。
山中恒・典子「間違いだらけの少年H」 (1999, 勁草書房) に昭和17年の最初の空襲の話があり、 小説「少年H」の中で山中夫妻は「少年Hが神戸空襲のときに米軍機爆音を聞いた」 件その他を、事実ではあり得ないと立証している。
関連して、○○國民學校の石出巳乃助が唯一の死者として新聞に報じられたと書いてある。 このときの死者には早中生もいた筈だからおかしいと思って、 上記の早稻田中學の新聞記事を読み直してみたら、6ヶ月後および1年後の追悼記事だった。
爆撃翌日の新聞は「被害軽微」と報じている。
二つの新聞で死亡した早中生の苗字が食い違っているが、
上記の石出君も「石田/石部」と仮名で報道されたそうで、仮名にする習慣だったのだろう。
爆撃地域を報ずると敵に情報を与えるから秘密事項である。
「早大付近に落下」と報じた新聞が検閲官から注意されたそうだ。
(
イラクに駐留する自衛隊の基地がロケット砲などで攻撃されることがある。
幸いにして未だ死傷者は出ていないが、新聞によっては「宿舎から何メートル」
と報道することがある。攻撃者に弾着誤差を教えていることに気付かないのだろうか。
)
一方で、東大に毎年10名前後の合格者を出すなど、一般受験でも健闘している。
東大に早高から進学した学生・OBで小さな校友会を作っている。 母数が小さいから、会合を開いても人数は集まらないし、そもそも幹事のなり手がいない。 10年位前その会合に出席したとき、 現役の東大生が「成績が悪くて早大の推薦が貰えず、仕方なく東大を受けました」と言っていて、 今昔の感に打たれた。 ただし、理系の場合は、早大理工の推薦が貰える成績なら東大合格の可能性が高く、 推薦を蹴って (厳密には「推薦を申請せず」だろう) 東大を目指す学生も多いそうである。
早実は、商業科廃止、男女共学化、初等科設立と、めまぐるしい改革である。 そういえば、平成15年東京に行って中央線に乗ったら、 早実の校章を大きく染めたカバンを持った高校生らしい女子がいたっけ。
そこで気が付いたが、女子が早大にエスカレーター式に進む道は、 早実の男女共学化によって初めて拓けたので、それまで附属は女子を受け入れていなかった ( 厳密には、早実も系属で100%早大に行ける可能性はないが、 早高よりも早大推薦率はかなり高く、ほとんど附属である)。
早実移転の話を聞いて、早中・高も早稲田から追い出されないか心配になった。 私が早中・高に在籍していたとき、早大学院、早大工業高校、早中・高、 早実中・高が全て近接していた。
早大工高は廃校、早大学院は随分前に上石神井に移転したし、今回早実が移転した。 早中・高の新校舎が建設されたばかりで (寄付もした筈)、まさかとは思うが安心できない。 生徒にとっては、学校が早稲田にあるのが幸せかどうかは分からないけど。
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First Written Before January 10, 1995
Transplanted to KSU August 26, 2003
Last Update May 27, 2006
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